昭和49年04月19日 朝の御理解



 御理解 第57節
 「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」

 何時どんな場合であっても心が動揺しない。言うなら心配はない。不安はないと云う様なおかげを頂いておるとすると、それは本当に神様を杖に付いておる証拠です。ところが心が穏やかでない。心配である不安である。心がゆらゆらしておる。と云う様な時には、全く神を杖に付くのではなくて所謂金の杖を付いたり、木や竹を付いておる自分であると云う事を知らなきゃいけない。知ると云うよりも悟らなければならない。
 自分が本当は信心をまだ頂いていない証拠だ。愈々真の信心を目指さなければならないと云う事になる。中々神を杖に付く、神様一心に縋っておると言う様であっても、実際は神を杖に付いていない。私は毎日御祈念の中に、神様に申し上げるんですけれども、私が頂いておるおかげ、又は私一家が頂いておるおかげ、それは心の状態も勿論、所謂物心両面の上におかげを受けておる。
 こう云うおかげを合楽にご縁を頂いておる御信者のすべてが頂いて欲しい、頂いてもらいたいと云う願いであります。私が頂いておるおかげはまだ是から限りなくまあー進展して行くでしょう。進んで行くでしょう。広がって行くでしょう。ですからそう云うおかげを皆さんもです。それに付いて頂きたい。是は私自身が頂いておる事ですし、私自身の信心、それに私自身のおかげですから、もう間違いがない事なんです。
 もう絶対の言うなら、自信を持って御取次させて頂く事が出来るのです。ですから皆さんも御取次を頂かれたら、そう云う御取次を受けて帰られて、さあ私以上のおかげを頂いてはならんと云う事はないですよ。私以上のおかげも頂いてもらわんなりません。けれどもせめて私が頂いておる心の状態、物やら金やらのお繰り合わせを頂いておる状態、人間関係の上にも、家庭円満の上にもまあ言うなれば、あの五つの願いを毎日皆さんなさいますでしょうがです。
 第一体の丈夫のおかげを頂いておる。しかも是は家族中の者が、頂いておると云う事。おかげを頂いて家庭円満な、おかげを頂いておると云う事。もう私是を信仰的な言葉で言うならば、私の家こそ拝み合うておると言う感じが致します皆んな。言わば子孫繁盛家繁盛の、おかげの言わば、おかげも頂いておると云う事。言うならば信心の継承であります。昨夜、光昭が学院無事卒業のおかげを頂いて、丁度御祈念が終わって、月次祭が終わりました後に、控えておりましたら、帰って参りました。
 まあだ話も聞いておりませんけれども、只「おかげで無事学院を卒業させて頂きました」と云う事だけを聞いただけで御座いますけれども。おかげを頂いてこの五月には、栄四郎がまた学院に入学致します。もう、本当に子供達がね、親の信心を受け継ごうとするその精進というか、努力と云うか、私は子孫繁盛家繁盛というのは是だと思うんですよ。子供が、親の信心を継承してくれるなら、もう絶対おかげを頂く事が間違いないのですから、そして私をはじめ。
 家族中の者もそうだと思いますけれども、是は私の信心の中心をなすものですから、本当に真実の御用本当の御用、神様に喜んで頂く様な御用の内容。一生懸命働く御用即働く事ですけれども、その働く事が例えばなら、私の家内が一生懸命炊事の御用を、例えば頂きます。おかげで女の修行生の方達やら嫁達も助かります。嫁達が女の修行生の方達が、一生懸命炊事の御用を致します。おかげで家内が楽になります。もうお互いがです。傍が楽になる事の為の働きを致しとりますと云う事。
 「あれがしよるけんもう放からかしとけ」と云うごたるものは更々ない事、もう親も子もが良子さんが楽になる様に、お母さんが楽である様にという言葉やら、思いやらないけれども、実際にそう云う働きが合楽ではあっておると云う事 そう云う横着な心と云う物がです。言うなら実意を欠いた心がないと云う事です。「こん位の事はしてもろたっち良かりそうなもん、こげな事もせんな」と言うて責め合う様な物が更々ない。本当に仕事である。その事にもう仕えておると云う感じです。
 何時も洗濯を毎朝、沢山の洗濯をしとるのを、何時も私は丁度その時分にあちらに下がりますから、公子さんが一生懸命でやっとる事があるかと思うと、良子さんが一生懸命やっとる事があるもう是は修行生の仕事であるとか、是はもう嫁の仕事であるとかと云う風に決めとらん。もう兎に角、されるものがすると言った様なおかげである。いわゆるその事に奉仕しておる。仕えておる仕事なのである仕事とは事に仕えると云う事。
 お互いが、傍が楽になる為に一生懸命働いておる。是が拝み合うておる生活なんです。「家のお母さんばっかりは顎の先で使わっしゃる。自分はじっとしてから」と云う様な事はない訳なんです。「出来る間は、神様の御用だから一生懸命させてもらわんならん」と言葉に言うて現わしはしてはおらんけれども、それが実際の上に於いて出来ておると云う事。だから、そう云う生活を拝み合いの生活だと思うておる。
 是は家族の者に徹底しているかいないか知らんけれども、私の思いの中には止むに止まれない思いを持って、最後の神願成就の事の為の、本当のお役に立たして頂きたいと言う一念を燃やしておると云う事。そう云う例えばおかげを皆さん一人一人の家庭の中に、家族の中に頂いて欲しいなあ。人間関係で悩んでおる人は、家をもちっと本気で一つ見習うて下さったらいいなあ。お金に不自由しとる人は、本当にお金に愛される物をです。合楽の者は持っておる。私大坪家の者。
 昨日も、丁度お昼に大事なお客さんが御座いましたから、私と勝彦で、家族中で言わば歓待させて頂いたんですけれども、「何をさして頂いたら良かろうか。あっちは何時も美味しい物を頂き付けて御座るとじゃから、何が良かろうか何が良かろうか」と色々言いよったけれども、私どう云う風にするか、どんな事だろうかと思って、若先生の部屋ででしたから、行ったらもう、それこそ見事な料理が色々種々出来ておる訳ではないですけれども、鉄板焼きと云う物を家で初めて頂きました。
 電気で便利な物ですね。それにもう見事な御大祭の時に使いました貝柱ですね。貝柱が一杯皿に綺麗に青い色彩を添えて盛ってある。片一方にはもう牛肉の見事な、是は丁度大祭の前日に種子島からです。種子島は大変牛肉の美味しい所だそうです。牛がそのもう一番美味しいい所をこんなに沢山一塊お供えを送って来ておりました。そのまま冷蔵庫に入れてあったから、それをもうそれこそ見事に大きな鉢に盛ってありました。そしてその鉄板焼きに一番合うと云う様な。
 お野菜が一杯こうテーブルの上に出とるのを見せて頂いて、やあ素晴らしいなあとこう、是は昨日だけの事じゃありません。もう何時も何時も、私の食膳に上って来るその料理を見ては、そう思うんです。例えば特にお客さんがある。特に大事なお客さんと云う時には、確かに神様が前々から用意して下さってあるです。そしてそう云う例えば思いも掛けないヒントを、おそらく嫁のヒントだと思うんですけれども、そう云う料理が一杯にある所でおビールを頂かして貰いよったら。
 こう云う料理にはワインが一番合うんですよポートワインが、「まあ、それもありますから持って来よう」と言うて持ってきた。それこそフランスの一番高級の白い葡萄酒を持って来ました。そしたら、葡萄酒に相応しいコップが出てきました。もう何を言うても、何を頂いても何を見てもです。神様のもう言うならば、一分一厘隙のない程しの歓待が出来るのです。お客さんに対する。さああの人が見えたけん、どっかで何ば買うて来、あれを買うて来いと言わんでもです。
 最後には茶碗蒸しが、私は最後までおりませんでしたけれども、茶碗蒸しが出たそうです。それで夕食の時に私頂きましたら、それこそ伊勢海老を始め、茶碗蒸しには一番合う料理が一杯でした。それこそ其処まで市場に行って、あればいっちょ買うて来いと云う物がない そう云うおかげをです。なら私だけではない。皆さんの一人一人の上にも、皆さんの家族の上にも頂いてほしい「いいや、私の方はまあだ贅沢しよります」と言うてもです。食物やらでは贅沢しよるけれどもです。
 家庭が円満じゃないじゃないか。家庭が円満であると言うても、食物に事欠きよるじゃないか。そう云う私はです。足らわない事ではいけないから、私が頂いておるおかげを皆さんが目指して下さって、おかげを頂いてもらわなければならない。それにはどうでも「神を杖に付けば楽じゃ」と云う信心を頂いて貰わなければならない。その楽な心に、無尽蔵に、いわゆる限りなくおかげに恵まれるのです。
 信心しておっても焦燥である。不安である心配である。腹が立ってしようがない。合楽にお参りしておって何と云う事かと言いたいです。そこでね私は思うんです。本当に御理解を素直に頂いて欲しいです。御理解を本当に素直に行じて頂きたいです。そこになら私が頂いておる程しのおかげならば皆さんも頂けれる。この世の言うならば幸福の全ての条件が必ず足ろうて来る。問題は素直にもっともっと素直に御理解を頂く事である。もっともっと素直に御理解を行ずる事である。
 本気で親先生任せにならして頂くと云う事である。是は昨日の御理解を借りるならば。今朝から私はお夢を頂いた。『どこかのお寿司屋さんが開店してあるとこであった。だから今日一日だけは、皿に五つずつお寿司が盛ってある。その五つずつだけならね、お金はいりませんとこう言うのである。それを合楽の信者さん方が、ずらっとコの字型にカウンターがあって、そこで皆が頂いてある。
 もうせからしいからちゃんと、おにぎりならおにぎり、いろんな寿司が五つずつこうやってあるから、それだけ食べれば良いとである。そしたら名前を言うてもいいけれども、まあちょっと伏しておきます。「五つずつならばお金はいらん」と言うたり、書いたりしてあるわけです。それでその人が、勘違いしとるごたるである。もう何時もお皿の中に五つ入っとるならば、いくつ食べったっち良かちゅうごたるに思うとるごたるなんです。それで、もう二つ食べて、三つ残ると、「まあ二つ入れて下さい」っち言いよんなさる。お寿司屋さんの方は「そんなこっじゃないですが、一皿ですが」っち言いたいごたるじゃけども、まあ開店日だから、またこう入れてやんなさる。
 そうすると、その人がですね。また他に一杯食べよる人達の、二つか三つ食べとると、まあ悪気じゃないです。五つずつでありさえすればただちゅうのですから、皿の中にいつも五ついっとりゃよかというとこで、その人達の皿を持って行ってから、注いでやりなさる。「いいえもう腹一杯頂いた」っち言いよるとこです。もうこげな勘違いはないでしょうが。「お皿に五つずつならばお金はいらん」と言うてある。
 一皿五つだけならばお金はいらんと言うのであって、寿司屋さんの方は、所がこちらの方は、それをいつも五つずつ皿の中に乗っておればもうお金はいらんと云う風にとっちゃるごたる。だから二つ食べたら、まあ二つくれれと貰う。もう五つ乗っとるからお金はいらん。それが自分だけじゃなくて、人んとにまでこうやって、言うならば気のきき過ぎてから、言うなら出過ぎると云う事じゃないけど、まあ親切が過ぎとるちゅうな感じ、それでもうハラハラしよるとお寿司屋さんの方では。
 そしたら今度あるご信者さんが、ある方が、「私、ワサビを食べきらんけん、ニンニクを入れちくれんの」っち言う、「ニンニクを入れてからにぎってくれ」とこちらから注文いよんなさるとこじゃった。それが私余りに可笑しいと言うて、もう一生懸命笑いながら今朝目が覚めた。だから、御理解は素直に頂くとか行ずるとかと言う事もです。頂き違えたら、勘違いをしたらいけんのです。それはままにはなっとります。ままになるおかげは頂いとります。
 または何時もかつもただで食べさせられる訳にはいかんのであります。御理解を素直に頂かなけりゃいかん。勘違いをして頂いちゃあならん。勘繰ってはならない。私は今朝からのお夢を頂いてです。今日の五十七節の御理解に聞いて頂いたが「金の杖を付けば曲がる。木や竹は折れる」そんなら「神を杖に付けば楽じゃ」と仰るから、神を杖に付けば良いじゃないかと、まあ一口に言えば、それだけなんだけれども、神を杖に付くと言う事は、実を言うたら大変な難しい事であると。
 所謂神様を信じ、神様を頂くと云う事はです。もう結局は素直に私の言う事を聞いて下さる以外にはない。素直に御教えを頂く以外にはない。それを本気で勘繰らずに勘違いをせずにです。頂き行じて行く以外にはない。五十八節次に「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても腹を立ててはならん」と言う御理解があります。言うなら神を杖に付いておればです。泥棒と言われても乞食と言われても、腹が立たんのです。腹が立つのは、まだ神を杖に付いてはいないのだ。
 だからそう云うひどい事を言われる様な事もです。神を杖に付かせて頂く、本当に神を杖に付かせて頂く為の修行だと思わせて頂かなきゃならんです。「神を杖に付けば楽じゃ」そう云う楽じゃと言うおかげはです。言うならば、五つの願いが全部足ろうておる。しかも是は、限りがないのですから、限りなく祈って行かなきゃならん。勿論、限りなくもっと進展、広がって行かなきゃなりませんのですから、愈々、信心を密なものにして行かなければなりません。
 その「神を杖に付けば楽じゃ」と云う事はです。例えばさあ御大祭と云うのに、案内も行き届いとらん。垂れ幕も掛けていない。さあ雨が降るじゃも分からん様な状態。おまけに西鉄がストまで起こしとると云うても、私の心は一つも不安じゃない。不安の不が見えなかったでしょうが。前夜祭に私の話を聞いて下さったら、もう自信たっぷりだったでしょうが。「どう云う例えば、悪条件の中にあっても、それは人間の考えであって、自分の人間の観念であって、神様はおかげを下さるんだ。
 愈々明日の御大祭そのものが日頃信心の稽古をさせて頂いておる、言うならば試金石のようなものだ」と私は皆さんに聞いて頂いたでしょうが。そしたら一切、実際に蓋を開けて見た所が、御大祭がどうですか。あの様な盛大な御大祭でしたでしょうが。今までかつてないと云う様な御大祭だったでしょうが。もう駐車場なんかは、もうあと一台の車でも入らんと云う位にぎっしりだったと言うじゃないですか。
 それは私がいかに「神を杖に付けば楽じゃ」と言う、その信心を頂いておるかと云う事を一つ判って頂かなきゃならん。あの手この手を打つ事は何もいらん。只神様を信じて、神の杖をツイておるから楽なのです。だからその楽な心に、あの様なおかげが受けられるのです。楽でないならば、神を愈々まだ杖に付いていないのだからです。例えば「泥棒」と言われりゃ腹かき、「乞食じゃ」と言われたら、プリプリすると言った様な物があるからなんです。そう云う楽なおかげの頂けれる。
 是が修行だと思うたら有難いです。物心両面と云う事を申しましたが、昨日一日の事柄の、私の家庭の中の事柄の中からです。此の様にもそれこそ恵まれ過ぎる程しの、それこそ必要なものが必要に応じて、頂けておる生活言うなら人間の幸福の条件の全てがです。足ろうて行っておる合楽の信心合楽大坪一家の一つのまあ手本の様な物を皆様は、見たり聞いたりなさっておられるのですから、今日私が皆さんに聞いて頂いた様な所をです。内容として本当に皆様が受けてほしいですもう是は私がん日々神様に願う事。
 私が頂いておる私の一家に頂いておる様なおかげをです。合楽に御神縁を頂いておる信奉者の皆さんの一人一人の家族の中に頂き、それを現わして欲しい。是は私が、なら皆さんがその気になって下されば、確信を持ってそう云うおかげが受けられると、私は確信する。それにはもっと素直に御理解を頂け、もっと素直にです。実行力を持って実意丁寧にみ教えを行じて行け、決して難しい事は言うていない。そう云う信心を愈々身に付けて行く事をです。私は神を杖に付くと云う事だと言う風に思います。
 「神を杖に付けば楽じゃ」と云う事は、人間の幸福の条件がすべて段々足ろうて来ると云う事なんです。私は最近思いますんですけれども、特に幹部の方達に多いのですけれど、私の御理解をですね、軽く見ておる訳ではない様です。けれども勘繰ったり勘違いをしたりして、頂いておる人達があると云う事です。だからもっと素直にです。御理解を頂き、御教えを頂き、もっと素直にです。それを行の上に現わして行くと云うおかげを頂いて頂きたいと思うですね。
   どうぞ。